MORE Trumpet

音楽好きな自営業者でトランペッター。いつでもトランペットが吹けるように防音室をDIYしました。

記憶を辿って今現在

週末、愛する叔母から日本酒が届いた。

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父の姉である叔母は86歳。若くして上京し仕事を引退してからは余生を軽井沢で送っている。娘も長野に嫁いだという理由で軽井沢を選んだのかもしれないが。

叔母と接し始めたのは、私が18歳の時に上京したてから。それまでは3度ほどしか会ったことを覚えていない。

少ない身内が上京してきたので気にしてもらえたのだと思うが、中野の古いアパートに布団ひと組だけを持って上京してきた甥っ子のことを心配してのことだと思う。(布団は福岡からの宅急便)

初めましてではないが、正直子供の頃に数回会ったくらいなので、ぎこちない挨拶で始まったんだと思う。が、叔母の第一声は「このアパートボロボロやね」だった。今でもたまに電話であのアパートは本当にボロかったという話になるくらい衝撃的だったのだろう。

 

この木造アパート「花園荘」はとても古くボロかった。今考えても花園荘は変わった造りをしていた。アパート一階部分は中華料理店、床屋などが入るテナント、それらの店舗と店舗の間に戸口がひっそりとあり、扉を開けると小さなたたきがあった、ここで靴を脱ぎ共同下駄箱に靴を入れる。

目の前の急勾配の階段を登ると、薄暗い廊下があり各部屋の木扉がある。部屋は4畳半で半畳の押し入れと木枠の窓がひとつ。風呂無し、トイレは共同。薄暗い廊下をギシギシと音を立てて歩きトイレに行くのが怖くて夜中は出来るだけ我慢をしたのを覚えている。

こんなにオンボロなのに家賃が3万円もするのだから「東京は物価がとても高いんだな」と、高校出たての若さでも感じることができた。

職場はこの花園荘の道を挟んだ向かい建物にあった。ぎりぎりまで寝て飛び起きて出社することができる点だけは花園荘は良い立地ではあった。それでもたまに寝坊をして職場の人に木扉をドンドンと叩かれて「いつまで寝てんだよ」と叩き起こされることもしばしばあった。

 

そんな劣悪な環境に住む甥っ子を叔母はいつも気にしてくれていた。それに甘えて仕事が終わり「今から行ってもいい?」と近くの公衆電話から掛け、職場の原付を借りて板橋に住む叔母の家まで何度も飯を食べに行ったのを覚えている。

 

そんな昔話を思い出し「花園荘」の現在を調べてみた。


もちろん、そこには花園荘の姿はなく、小さな食品スーパーが入る立派な建物になっていた。この柳は当時と変わらず花園荘の木枠窓から見えていた。柳とボロアパートの組み合わせはとてもシュールだった。


さらに先から見た風景。小規模保育園のような施設も入っているようだ。このカーブミラーの辺りに戸口があったと記憶している。当時の佇まいを写真に収めておくべきだったな。ちなみに職場だった会社も建て代わり今では存在していない様子。

 

そして、あることに気がついた。現在のこの建物が「花園ビル」であることに。

花園家で(名前なのかは不明だが)相続され受け継がれているのだね。次に叔母と電話する時の話題にでもしてみようと思う。